7年ぶりのアメリカ(3日目)

9月18日(日)アメリカ旅行3日目。

モーニングコールが朝5時にかかってきた。ヤバイ、また昨晩も寝られず、おなじダイエット番組を繰り返し観てしまった。そう、モーニングコールがかかってきたときもすでに起きていたのである。そして5時45分、マサさんグループ一行は朝食を済ませ、6時15分にホテルを出発し、いざモニュメントバレーの朝陽を見に出発した。

7時、モニュメントバレーに到着。昨日の夕陽を見た場所に再び戻ってきた。そして、東の空を見ると、夜空がうっすらと白みはじめていた。正直、この43年間、一度も日の出を拝んだことがなく、人生初の日の出がここ、モニュメントバレーであることに自分の中では結構自慢となっていた。そんなことを思いながらじっと日の出を待っていたのだが、日の出前の砂漠は結構寒い。一応、Tシャツの上に長袖のトレーナーを着ていたが、残念ながら下は短パンとサンダル。それしか持っていなかったと言ったほうが正解であるが・・・。そして、ガクガクブルブルと震えながら日の出を待つこと15分、やっと朝陽が顔を出し始めた。下の写真がそのときのものである。やはり日本人だけあって、ツアー一行は皆、朝陽に向かって手を合わせ拝み始めた(結構異様な光景だね、傍から見ると・・・)。そして朝陽がある程度昇ると、徐々に暖かさが戻ってきた(はぁ~生き返る~)。

モニュメントバレーの日の出

皆、日の出を満喫し、そして再びバンに乗り込みホテルに戻り、荷物積み込んでいざグランドキャニオンへと出発した。それが朝の8時30分ごろであった。出発を8時30分と言ったが、実は、前日にこの地に到着した際、1時間時計を進めており、ユタ州時間にしていたのだ。つまり、再びグランドキャニオンが所在するアリゾナ州時間に合わせるため、1時間時間を元に戻した。そう、その時はまだ8時30分ではなく7時30分なのである。余談だが、私たちが昨夜宿泊したKayenta(カイエンタ)という街のモーテル「Hampton Inn of Monument Valley」は住所がアリゾナ州になっているが、モニュメントバレー周辺であった場合はユタ州時間を標準としているらしい。イマイチ説明に微妙な疑いをかけつつ、ドライバーマサさんの言うことをそのまま鵜呑みにすることにした。

さて、ホテルをでて3時間のドライブの後、ついにグランドキャニオンに到着。この場所は私にとって本当に生涯忘れられない場所である。というのも、ご存知の通り、ここは山ではなく渓谷なので、ハイキングは行きに下り、帰りは登る。そう、「行きはよいよい、帰りはこわ~い」というフレーズが最も似合うのだが、私は若かりし頃、このグランドキャニオンでハイキングをしたことがある。帰りは行きの倍ぐらいの時間がかかったのを今でも覚えている。そう、あれは1992年6月、ものすごく暑い時期で、ハイキングをするなら相当な水の量を携帯していかなければならない時期であった。その日はもちろん晴れ。炎天下の中、たくさんの仲間と谷底に下っていたときのことである。中の一人が、「誰が谷底に到着するのが早いと思う?競争する?1番になった人は・・・(←1等賞の賞品が何だったのかは覚えていないが、何か魅力的なものであったに違いない)」などと挑戦口調で言っていた。皆若かったので、直ぐにエンジンがかかり、一同に狭いハイキング道を駆け下りていった(今考えると、なんて恐ろしいことを・・・)。それから数十分後、先頭組みと後続班と分かれた。私は先頭組みで1番手であった。そのうち私は皆を徐々に振りきり、単独首位で谷底に到着した。コロラド川の清流が勢いよく流れており、これまでに見たことのない風景であった。私はその谷底の川沿いを足の速度を徐々にゆるめながら景色を堪能した。自分が1番で谷底に到着したことに多少鼻を高くしながら。

しかし、そもそものマチガイをその時私は全く気づいていなかった。そう、実は少し前からハイキングコースの進む道を間違えていたことを。谷底に到着してから30分ほど川沿いを歩くと、小さな村(?)があった。人気がなく、ひっそりとしていた。そしてその村を通り過ぎるとなんと、そこには「Dead End=行き止まり」のサインが・・・。思わず「Oh, My God!!=そんな馬鹿な!!」と発した記憶がある。焦った私はその小さな村の住民を見つけようと必死になった。そして一人の老紳士を発見。そして道を尋ねてその時思い出した。谷底のコロラド川が見えたときに反対岸に続く木造りの橋があったことを。そう、あの橋で向こう岸に渡り、そして地上目指して登るハズになっていたのである。私のこのハイキングの誤算は、コースをしっかりと頭に入れていなかったことである。そんなこととは知らず、ボケーッと30分も違うコースを歩いていたのである。

残念なことに、私の誤算はこれだけではなかった。谷底まで競争し始める少し前、その時のグループで一番仲のよかったM氏が「シンタ、俺のペットボトル、シンタのバックパックに入れといて。」と言ってきた。私は彼に「バックパックに入れてあげてもいいけど、重くなるからMがぼくのパックパックを背負ってくれるなら入れてあげてもいいよ~」と言ってみた。言い換えれば、結局私は「持ちません、しかも私の分のペットボトルもヨロシク~」と訳の分からん条件を出していたのである。結構悪どいな、と今更ながら自分でも思う次第である。しかしM氏は「いいよ」といいながら私の肩からバックパックを取り外し背負い始めた。その後に、「谷底までのレース」が始まったのである。そう、あの時が運命の分かれ道だったのだ。

谷底に到着し、自分がコースを間違えていることに気付いたのが30分後。そして急いで元の道を戻って、木造りのあの橋を渡って反対岸に渡るまでに30分。つまり、私が仲間たちのいるところまで急いで歩いても約60分はかかることになる。それでも少しでも彼らとの距離を縮めようち早歩きをしながら進んでいった。谷底は地上と呼ばれるところより気温が高く、しかも木々が生えていないため、日陰で休むことすら困難な状態なのである。更に、私の飲み水はM氏が背負っているバックパックの中。給水所も近くにはなく、周囲にも人影がない。そんな恐怖を間近に感じながら、それでも先へ先へと進んでいった。歩けども歩けども、皆に追いつくことができず、気持ちだけは先に進むが身体が次第に言ううことを聞かなくなる。

そして恐れていたことが起こった。炎天下の中、ついに私は喉の渇きと疲労で意識を失い、その場に倒れてしまったのである。今でも覚えている、喉が渇くとどうなるか。飲み込む唾も出て来ず、それでも何とか振り絞るとほんの1滴程度の唾が舌に乗る。そしてその1滴を喉に運ぶと、喉に針が刺さったかのような痛みを感じる。喉が完全に渇ききっていたせいでほんの少しの水分が入るだけでも痛みに変わるのである。どれくらい経ったのかは定かではないが、20~30分程度は意識を失っていたと思う。それから少しずつ意識を回復した。それはアメリカ人の若い夫婦(30代前半)が、私に少しずつ水分補給してくれていたからである。彼らは自分たちのテントの一部を取り出し日陰を作り、私をその下で介護してくれていた。夢の中からボーっと目覚めた私は、すぐに状況を把握することができなかったが、徐々に自分が倒れていたことを知らされた。私は、その若い夫婦から飲み水を分けてもらい、少しずつ渇き切った身体に水分を吸収させた。そして30分後くらいには歩けるようになり、再び歩き始めた。今度は3人で。彼らが一緒に居てくれることで、私はとても心強かった。水を分けてもらい、緊急の場合の処置の仕方、この先の給水所の大まかな距離と時間の情報、そして話し相手となってくれたことが今でも忘れられない。本当に「感謝」の一言である。

やっとのことで給水所までたどり着いた。そこでも私は人の親切に出会うこととなる。到着した給水所は実はコースの分かれ道でもあった。そこは3手の道に分かれており、私は自分が進むべきコースを知らなかった。若い夫婦が地図を出し、私のキャンプ場を探す。周囲の人たちも知恵を出し合う。私はただただ、自分のキャンプ場の名前を思い出そうと必死だった。そして、やっとのことキャンプ場の名前の一部分を思い出し、そこからすぐに向かうコースが判明した。残念ながら私を助けてくれた若夫婦は私とは別のコースを進まなければならなかったので、この給水所でお別れであった。私は彼らに心からの感謝を述べ、立ち去ろうとした。その時、彼らが、「あなた、水筒ないでしょ?ここの給水所で入れないと、まだ先は長いのよ。」と言われた。しかし、若夫婦は二人でシェアしている水筒1つしか持っておらず、私にくれる入れ物は持ち合わせていなかった。すると、若夫婦は給水所で休んでいた多くの人たちに「誰か、余分な水筒はありませんか!この子にあげる水筒をどなたか持っていませんか!!」二人は大きな声で私のために命をつなぐ水の容器を探してくれた。私は本当に涙がでてきた。キャンプ場から持ってきたタオルもバックパックの中だったため、私は必死に日に焼けた腕で涙を拭っていた。それからすぐに、「インディージョンズ」風の出で立ちのカッコいい50歳くらいの親切な紳士が馬と一緒に私のところにやってきた。そして彼は私にプラスチック製のアーミー水筒を差し出し「これを使いなさい」と言ってくれた。素直に受け取ればいいのに、なぜか私は「いえ、そんな、こんな立派なものは・・・」などと訳の分からん断り方をしていた。すると、インディージョーンズが私に「死にたいのか!!これに水を入れて持って行きなさい!!」と本気で怒った。私は本当に感謝し、お礼を言いながらそのアーミー水筒を受け取った。インディーはそのまま馬と共に立ち去っていった。私はインディーの「死にたいのか!!」という言葉からあふれ出した涙を止めることができなかった。それは、人の親切に触れた瞬間だったから。

若夫婦ともお礼とお別れを言い、そしてインディーから頂いた水筒に水を一杯入れ、そして再びキャンプ場目指してハイキングコースを一人で歩き始めた。そしてそれから3時間半後、無事にキャンプ場に到着した。キャンプ場では皆心配しており、皆で手分けしてもう一度ハイキングコースを逆戻りしながら捜索しようか、と話し合っていたところであった。私はその日にあったことを皆に話し、それから夕食も摂らずにテントで死んだように眠った。これが私の忘れられないグランドキャニオンの思い出なのである。あの時、意識がもうろうとしていたので、あの若夫婦やインディーの名前や住所を聞くのを忘れており、後に正気に戻ったときに気付いた次第である。インディーからもらったアーミー水筒は今でも私の部屋に飾られており、その水筒をみるたび、人の親切心に救われ自分が今ここに生きている、ということを改めて痛感するのである。思い出話が長くなってしまったが、これ以降は今回のツアーの話に戻ることにしよう。

グランドキャニオン – ナバホポイントにて

さて、ツアー一行はグランドキャニオンに到着。サウスリムのヴューポイントに数箇所停まり、この広大な渓谷を堪能した。ここも以前と変わっていないなぁ、と安心するかのようにつぶやいている自分がそこにいた。その後、13時にはグランドキャニオン国立公園内で昼食(バイキング)をとり、14時にはグランドキャニオンを後に、ラスベガスに向けて出発した。途中、セリグマンの町に立ち寄った。そこはルート66の名残りがある町で、ルート66の保存に貢献したエンジェルというおじさんの小さなギフトショップ(と床屋)がある。このギフトショップ&床屋は観光ガイドなどでよく紹介されてる有名なお店らしく、芸能人も多く来ているようである。私はここでコーラを一本買った。

ルート66の名残りがあるセリグマン町のギフトショップ

そして一行は再びバンに乗り込み、そして無事にラスベガスに到着した。18時30分のことであった。私は車を降り、ドライバーマサさんにお別れを言った。マサさんは他のツアー客を乗せたまま去っていった。そして、後になりマサさんにチップを渡しそびれたことに気付く(ごめんなさい、マサさん。また機会があったらその時にダブルにしてお返しいたします)。それから、このツアーに一人で参加していたT氏(33歳)と一緒に夕食をPalazzo Hotelの1階にあるDLA TOROというイタリアンレストランでとった。T氏は、彼の思い出の地であるラスベガスを皮切りに、一人で南米を2年間かけて回るという、いわゆるバックパッカーなのである。私とちょうど10歳ちがうので、私もあと10歳若ければ・・・などと思いつつ、この食事で彼の門出を祝った。そして私たちは固い握手をし別れた。その後もメールやフェイスブックなどでやり取りをしている。また、結構マメに更新されている彼のブログがあるので、まるで彼にGPSがついているかのように、ここ最近はどのあたりを訪問しているのかが一目瞭然である。帰国したら面白い話が聞けそうである。今から楽しみである。

これが1泊2日のグランドサークルツアーである。本当に2日間?と思うほど中身が濃く、あたかも3泊も4泊もした気分である。明日からはのんびりとラスベガスでの話を書きたいと思う。

7年ぶりのアメリカ(4日目)につづく。

シンタ

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